はじめに
この記事は、昨年私自身が体験したことを、できる限り整理しながら記録として残すために書いています。
最初に書いておきたいのですが、私は「支援」そのものを否定したいわけではありません。
人とつながること。
支え合うこと。
孤立しないこと。
それ自体は大切なことだと思っています。
実際、私はずっと「つながること」は善だと思っていました。
ただ今回の体験を通して、私は初めて、
「安心安全や境界が守られていない状態での“つながり”は、人を回復させるどころか、自己喪失へ向かわせることがある」
ということを、身をもって知りました。
これは、単なる人間関係の愚痴ではありません。
昨年の私は、本当に医療機関へ行くべき状態だったのだと思います。
今だからこそ、ようやくそう整理できます。
「ウェルビーイング」のはずでした
昨年の私は、
- 自己理解
- 自分軸
- ウェルビーイング
- 対話
- つながり
- コミュニティ
- 子育て支援
という言葉に、ある種の希望を持っていました。
自分を理解したい。
よりよく生きたい。
人とつながりたい。
家族としてちゃんと生きたい。
そう思っていました。
特に私は、
「人は完全には分かり合えない」
という前提を持ちながらも、
それでも違うまま共存したい。
歩み寄りたい。
与え合いたい。
そんな感覚を大事にしてきました。
だからこそ、支援やコミュニティに対しても、どこかで「善」を信じていたのだと思います。
でも実際には、自分の感覚が消えていきました
今振り返ると、昨年の私はかなり認知を持っていかれていました。
自分の意識がゼロだったわけではありません。
自分で考えている感覚もありました。
自分で選んでいる感覚もありました。
でも今なら分かります。
私はかなり限界状態でした。
睡眠。
緊張。
過適応。
空気読み。
境界の曖昧さ。
それらが積み重なり、私は「自由に考えられる状態」ではなくなっていました。
感覚としては、
「2割くらいは自分がいた。でも8割くらいは持っていかれていた」
に近かったと思います。

「本来の望み」と言われることへの違和感
私は昨年、自分でも驚くほど認知が揺らいでいました。
今なら分かります。
あれは、かなり防衛反応に近い状態でした。
でもその時に出てきた感情や行動を、
「それが本当のあなたです」
「それが本来の望みです」
「それが自分軸です」
と扱われることに、今は強い違和感があります。
もちろん、その時の感情が全部嘘だったわけではありません。
でも、それは「安全な状態で自由に選んだ望み」とは違っていた。
不安を避けるため。
見捨てられないため。
その場に適応するため。
関係を壊さないため。
そういう防衛的な反応が、かなり混ざっていたと思います。
本当に必要だったのは、自己理解ではなく医療でした
今の私は、かなりはっきり思っています。
昨年の私は、自己理解より先に、医療機関へ行くべき状態でした。
でも当時は、
- 自分軸
- ウェルビーイング
- 対話
- 自己理解
の方向へ進んでいました。
今振り返ると、それは順番が逆でした。
まず必要だったのは、
- 安全
- 休息
- 境界
- 神経の回復
- 医療
だったのだと思います。
安全が崩れた状態では、人は「本当の望み」を見つけるどころではありません。
むしろ、生き延びるための適応が優先されます。

一番傷ついたのは、プライバシー侵害でした
今回、私が深くダメージを受けた理由は、単なる価値観の違いではありません。
プライバシーや尊厳を侵害された感覚があったからです。
しかも、それがかなり深刻でした。
訴訟を起こしてもおかしくないと思うレベルだった、と今でも感じています。
さらに苦しかったのは、
「誰一人として謝罪しなかった」
ことでした。
私は、
- 娘を亡くした経験
- 夫婦観
- 家族観
- 仕事への思い
- 女性としての感覚
など、とても個人的なことを話していました。
でもそれらが、
- 勝手に意味づけされる
- 夫婦問題へ回収される
- 異性関係として解釈される
- 「自分軸」の問題として処理される
感覚がありました。
その時、私は強い侵食感を覚えました。

「孤立防止」が苦しかった理由
私は、孤立防止そのものを否定したいわけではありません。
でも今回、私は、
「もっとつながろう」
「もっと家族で」
「もっと対話を」
という空気そのものが、かなり苦しくなっていきました。
理由は単純でした。
私にとって本当に必要だったのは、
「評価されずに存在できること」
だったからです。
私は、人の気配や期待をかなり受け取るタイプです。
だから、
- 空気を読む
- 場を整える
- 関係を壊さない
- “ちゃんと”する
を、無意識に背負ってしまいます。
その状態で「もっとつながろう」と言われ続けると、自分がどんどん削れていきました。
子育てと母親という問題
私は3歳児の母親です。
そして今回の体験を通して、
「母親が安心して存在できないことは、子どもにも影響する」
と痛感しました。
私が削られることで、息子にも影響が出る。
だからこれは、単なる個人のメンタル問題ではありません。
本当は、
- 母親が休めること
- 評価されないこと
- 家族像を押し付けられないこと
- 境界を侵害されないこと
が必要だったのだと思います。

今の私
今、私は少しずつ正常な感覚へ戻っています。
診断は受けていません。
お金もかかりますし、今はなんとか日常へ戻れているからです。
正直に言えば、そのお金をおしゃれに使いたい気持ちもあります。
でもこれは単なる気晴らしではありません。
私にとって、
- 女性性
- 身体感覚
- 美意識
- 「自分らしさ」
を取り戻すことは、かなり回復とつながっています。
私は長い間、自分の感覚より、周囲へ適応することを優先してきました。
だから今は、
「自分の感覚へ戻る」
ことを、とても大事にしています。
最後に
昨年の体験を通して、私は学びました。
人は、自分を失いながらでも適応してしまう。
そしてその適応は、ときどき「本人の本当の望み」として扱われてしまう。
でも私は、それを本来の望みとは呼びたくありません。
私が本当に守りたいものは、息子です。
そして息子を守るためにも、まず私自身が削られきらないことが必要でした。
私はこれから、
「もっとつながれるか」
ではなく、
「自分を失わずに存在できるか」
を基準に生きていきたいと思っています。

